百年目(その2)

紙縒り(こより)を百本よる作業の進み具合を問われた丁稚が「もう96本でんねん」と答えるも「もう」は残りの意味でほとんど作業ができていなかった(「一升のお酒を宛がわれれば、御猪口にほんの1杯か2杯しか……残しません」という米朝のまくらも覚えていますが、同じパターン)など、暢気な店の雰囲気がまずホッとします。
この他にも、番頭が「芸者という紗は夏着るものか、冬着るものか。太鼓持ちという餅は焼いて食たらうまいのか、煮て食たらうまいのか、一切れも味おうたことがおまへんねん」(『桂米朝コレクション1(ちくま文庫)』)と白々しく惚けるところ(この場面の後ほどなく馴染の太鼓持ち登場)、人目を憚って屋形船の障子を閉めさせていた番頭が酒も入って大胆になっていくところ、正体が親旦那にばれて夜逃げの準備をしたかと思うと、お目こぼしを期待して持ち逃げしようとした着物を元に戻したりする、番頭の葛藤の臨場感、親旦那が昔話で取り上げた番頭の丁稚時代の不器用さと(その番頭が…と言いたくなるような)冒頭の自らの小言との呼応(立場変われば番頭も丁稚も似たようなもの)など、それぞれ面白いです。
親旦那のお説教の中心は「赤栴檀(しゃくせんだん)と難莚草(なんえんそう)」の説話。
難莚草は雑草だが赤栴檀の大木が育つのにかけがえのない肥料となり、うっかり抜いてしまうと赤栴檀が枯れてしまう。
帳場では赤栴檀が番頭で難莚草が丁稚衆、大店全体では親旦那が赤栴檀で難莚草が番頭とお役交代。
番頭がいないと大店は一たまりもなく衰えてしまうこと(「引き続き店を仕切ってくれ」)を暗に伝えながら、番頭の管理が徹底する余り部下の伸びる芽を摘むことのないよう釘を刺すあたり巧みですね。こんな上司にめぐり合いたかったなぁ。