整理整頓について

被災地の瓦礫の撤去を見ていてふと思いますが、あれだけ不要な(不要になってしまった)物があると片付ける意欲も失せてしまうのではないかと案じます。
おそらく整理整頓は総量が必要な物>不要な物で、不要な物の処分をする決断ができているときにうまくいくのではないでしょうか。


結局は必要な物を絞り込んでその整頓の仕方を決めるのが整理整頓ですから、あまりに不要な物が多いと大切な整頓の方に意識が傾きません。


一般の掃除は不用品をまずなくすところから始まるような気がします。
ところが、不用品を減らすことが案外難しい。
「いつか何かの役に立つかもしれない」とスペースを取るものを残しておいたり、「もったいない」と漫然と保管しておくと、本当に必要な物の所在も怪しくなりかねません。
中には不用品を高いところに移したり、目に見えないところに収納するなど、視界から外してホッとする整理整頓名人(?)もいます。


不要であっても捨てるのには思い切りが要ります。
ましてやまだ使える物だったりすると罪悪感すら伴いかねません。
私もこの思い切りがなかなかつかないために、身の回りが片付かない一人です。
大震災の後始末は想像もつきませんが、身近な大掃除(GWにでもやってみようかなと思いついたことの一つですが)を例にとっても難しさを感ぜずにはいられません。


直ちに健康には影響がない

今回の大震災で、放射線物質の残留濃度などの説明の際、標記のような表現をされることがあります。
これは、かえって不安を掻き立てるのではないでしょうか。


「直ちに」はすぐにか、あるいは直接的にという解釈になりそうですが、裏返すといつかは、あるいは間接的には何か悪影響があるようにも受け止めることができます。
おそらく、判断基準の曖昧さが関係しているように思います。
特に安全というラインのわかりにくさです。原子力に無知の素人は、専門家といわれる方の解説を聞いてかえってわからなくなったり、不安が増したりということがあります。
ゼロでない残留物質がありながら、大丈夫というのは多分に個人の価値観に関わる問題かもしれません。
なぜ、ゼロでなくとも微量(?)であれば人体には関係なしといえるのかの基礎知識が素人には不足しています。


情報をオープンにすることは信頼関係を維持する上でも大切なことであり、放射性物質についても頻繁な数値の公開が求められることでしょう。
ところが、公表のたびに当惑したり疑心暗鬼に陥るのでは逆効果でもあります。
数値を読み取る基礎的な知識がないままにデータを知らされても混乱するばかり。


基礎知識の習得は結構高いハードルなので、いっそ解釈できないデータは仮に親切であっても知らせてもらってもなぁという気がしてなりません。
一方で知らせてもらって然るべきデータが隠されている可能性も否定できません。
最近、電波によく載る難解な用語やデータに触れるたび、公表する事項や内容の難しさを感じ、つい話題にしてみた次第です。


主体的に判断したい(その2)

もう一つはテレビ番組です。既に普段の構成に戻りつつあるものの、どこのチャンネルも災害発生当初は、判で押したように同様な報道特集の感じが否めませんでした。
広告については、AC(旧公共広告機構)のコマーシャルが暗記できるほど繰り返し流されていますし、番組の終わりとコマーシャルの間隔がないので、ある番組から次の番組への移行がわかりにくいのも各チャンネルとも同様。


テレビには本来もっと各社の個性や多様性を期待したいところです。
番組の区切りとコマーシャルの間にワンクッション置く局がもっと現れてほしい。
報道番組なら、放映時間を全部緊急事態の重複の多い報道にあてるのではなくて、早いうちからほんのわずかでも通常枠のレギュラ―番組を残してほしいなど。
もちろん、番組制作や編成・放映には様々な事情が伴うのでしょうが。


今回の震災は未曽有のものだけに、絶えず安否から計画停電交通機関の運行情報を流さねばならない必要はわかるのですが、「どの局も同じ」よりはもう少し多様な視点の異なった取材や放映の仕方を報道各社それぞれに工夫を凝らし主体性を発揮してくれると、被災地の情報もより明確になり、テレビに元気をもらう人が増えるだろうと思うのはマーだけでしょうか。

主体的に判断したい(その1)

「隣が、あるいはみんながそうしているから私もそうしよう」という傾向はいろいろなところでみられますが、今回の震災に際しても当てはまるところがいくつかあるように思います。
一つには、商品の買い占め。
生活必需品をこぞって買い始めると、困る人が発生するのは目に見えているのに、競うように買い占めてしまいます。


被災地に必要な物資を首都圏で大量購入することにより、支援物資の方に悪影響が出ないか気がかりです。
買い占める商品も保存が利きそうなものはもちろん、そうでない食料品まで店の棚から一掃されてしまいます。
「なくなったら困るぞー」という風評でも流れたのでしょうか。


これらの多くは根拠がないものだと思います。
流言には曖昧さがカギになっているといわれます。
信頼できる情報がなく、曖昧な状況に置かれると人々の間のコミュニケーションを通じて曖昧な状況にもっともらしい意味づけがなされることでデマが広がりやすいとのことです。
トイレットペーパー、飲料水、パンが首都圏で不足するなど公式情報はない(飲料水は放射性物質の検出で状況が変わりつつありますが)と思いますが、乾電池も含め非常時の対策に不可欠な物品としてイメージされ、それが増幅されて買い占め騒動に発展したのでしょうか。
被災地以外の一般人の車にあんな混雑を起こすほどガソリンが必要とも思えません。
曖昧な不安のなせる技なのか。


いずれにしても、買い占め行動に走っていない人にかなり不便が生じているのは明らかです。
さらなる震災や停電への不安やおそれで冷静さを失いがちな気分のところへ、このような人工的なパニックを加えるのは愚かしいことに思えます。

あまりない経験

3月11日の大地震の際、通院帰りの電車に乗っていました。
急停車し、激しい縦横の揺れ―あれほど大きいのは初めての体験でした―で、車両ごと横転するかと心配しました。
それから一時間半ほど車両に閉じ込められました。


乗客は情報を求めてめいめいが携帯電話を取り出します。
ワンセグのテレビを観ていた人が『震度7?』という信じられない数字を口にしたのが漏れ聞こえました。
乗っていた電車の場所の震度はあとで確かめると5くらいでしたが、それにしても大変なことが起きているのは、さすがのぼんやりすとでも察することができました。


感心したのは閉じ込められた時間に奇声をあげたり、怒り出す人がいなかったことです。
あんな長い時間をみんなが不安な中、じっと待っていたのです。
車掌さんも車内アナウンスだけでなく何回か車内回りをしてくれたのも、乗客の平静心を保つのに役立ったかもしれません。


そして、最後の車内アナウンスが「これから最寄り駅まで歩いていただきます」―えっ、どれほど距離があるんだと心配しましたが500mほどとのこと。
車両から一人一人梯子を使って線路わきに降ります。
電車の床は案外高いところにあるのですね。
結構長い梯子でした。
着物の女性やよちよち歩きに近いお年寄りもいて、みんなに歩けと言われても容易ではありませんが仕方なし。


ようやく最寄駅のホームにたどり着いたときに線路から見上げてわかりましたが、駅のホームは思いのほか高いところにあるのですねた。
線路を歩くのはめったに経験できませんが、やってみると案外大変でした。
その中で乗客の冷静さは予想外で大したものだと改めて感じました。

ゆっくり急げ(その2)

ここでは、ゆっくりを、立ち止まるのでなく、のろのろとでも前に進むことと仮定してみます。
もちろん、何か難しい問題にぶち当たったとき、いったん立ち止まって周囲を見渡してから対応することは大いに意味があることだと思いますが。


ゆっくりの効用は、考える時間がより多くあることです。
途中で軌道修正や方針転換をすることだってできるでしょう。
ゆっくりだから、目覚ましい変化は生じにくい。
でも、少しでも進んでいる限りはやがて前途が開けることはありそうです。
見当がつけば、そこからスピードを上げて急ぐこともできます。


一般に急ぐとあとで修正が効かなくなることが多いので、ゆっくりで始める方が賢明な気もします。
慌てず焦らずに大変なときほど冷静に物事を見つめ直し、少し時間をかけて考えてその後の展開の見当を付け、必要があればその見当に沿って時にはスピードアップしてみると、難しそうな課題もそれなりに解決できることが少なくないのではと感じています。


「ゆっくり急げ」、時々思い出してみたい言葉です。

ゆっくり急げ(その1)

ラテン語の格言にゆっくり急げ(Festina lente)というのがあります。
不勉強で正確な意味を知らないのですが、そこはマーエーヤン精神で適当に解釈しています。
「ゆっくりだけでも急ぐだけでもいけない」、「急いでいるときにもゆとりを大切に」、「初めゆっくりでそれから急ぐ、急いでからスピードを落とすのもやり方」など。


現代のようなスピーディな時代には、急げが求められる場面が多いでしょう。
早期教育然り、「準備は怠りなく」の保険会社、通信販売の「お急ぎください」をはじめとするコマーシャルもよく目にします。
結果を早く出すことに意味がある世界はいくつもあります。
最先端の研究でも早い者勝ちの戦いといえるかもしれません。
同等の研究成果でも1日でも先行した方に光が当たります。
特許などもそうでしょう。
スピード競争はスポーツ界の定番でもあります。


悩み事や苦痛があるとき、そこから少しでも早く抜け出したい気持ちは切実なものだと思います。
しかし、現実には多かれ少なかれ状況によって時間がかかります。
急いでも思うようにならない、だから尚更目標達成や結論を出そうと焦る、この繰り返しが悪循環となる場合もありそうです。


自動車の運転にたとえると、スピードを上げると視界が狭くなります。急ぎすぎると周りが見えなくなることは日常生活にも当てはまります。


一方、ゆっくりやってみるのはどうでしょうか。