ある展覧会の感想(その2)

仙がい和尚はエピソードに事欠かなかったそうです。たとえば次のようなのがあります。


ある外出からの帰り、ぬかるんだ道の真ん中で下駄の鼻緒を切らして立ち往生していたところ、近くの豆腐屋の女将さんが親切にも駆けつけて鼻緒をすげかえてあげた。
その翌日、店の前で掃除をしていた女将さんの前を仙がいさんは、昨日の御礼一つ言わずに「やーおはよう」と声をかけただけで通り過ぎてしまった。
その後何回か仙がいさんと出会うもやはり同じ。
「鼻緒のすげかえはささやかな親切かもしれないが、せっかくやってあげたのだから、御礼のひとことくらいあって然るべき」と女将さんは心中穏やかではありません。
気持ちが治まらない女将さんは、ついにある日、仙がいさんの信者に.事の始終を話し、心の中のわだかまりを吐露します。
女将さんの意を受けたその信者が当の仙がい和尚に抗議すると、返答は次のようなものでした。


《以下は、光明寺愛媛県)ホームページからの引用》
「『そうかそうか、それはまことに気の毒なことをした。実はワシはあの時の親切を本当に身にしみてありがたく恩うていたのじゃ。
困った時に受けた親切はとても銭金で返せるものではない。まして、口先だけの礼ですませるものではないんじゃ。
ところが人間というものは浅ましいもので、どんな大きなご恩を受けても、お礼を言いさえすればそれで帳消しになったように思うもんだ。
ワシはそれがいやさに,わざと心の帳面に刻んで、一生かかってそのご恩を頂いていこうと思っておったのに、女将はそれを現金で払えというのか。
それならお易いことじゃ。明日にでも早速払ってくることにしよう』
この逸話は人間の親切や真心といったものの正体を見事に言い当てたお話だと思います。
よく私たちは『お礼を言ってもらうためにしたんじゃない、真心でしたんだ』と言います
が、その実お礼を言ってもらえなかったり、お礼の言い方が悪かったりすると,無性に腹が立つのです。
本当に純粋な親切心からしたのであれば、相手がお礼を言おうが言うまいが、そんなことは問題にしないはずです。
ところが、私たちの親切には『我執』([注]「自分が一番可愛い」という心)という不純物が混じるのです。
我執の混じった親切には『してやった、やってやった』という思いが付くのです。
他人から受けた親切はすぐに忘れるくせに、こうして自分のした親切だけは,わずかばかりの親切でも『してやった、やってやった』と自惚れて、何時までたっても忘れないのです。
確かに親切は立派な善根ですが,私たちはこうしてこの善根に我執の毒を付けるものですから、せっかくの善根も片っ端から腐らせてしまうのです。」


実生活に照らすと、女将さんの最初の怒り(時間が経つにつれて増幅されてしまいますが)もごもっともな感じがします。
でも同時に、この一風変わった和尚の言葉にもなるほどと思うのです。
「常識の枠からははみ出るけれど、そこから伝わって来るものは確信を衝いている」――このことは、観てきた作品にも当てはまるような気がします。