看板の一(その1)

落語には、誰かがうまくいったり、いい思いをしたりするのを垣間見る、あるいは感心するような話を聞かされたときに、そっくり真似をして自分も満足しようとする人の話がよく出て来ます。
時そば』、『佃祭』のように、傍から見たり聞いたりしたことの真似をするパターン、『青菜』、『子ほめ』のように人からたまたま聞いたことをそのとおりやってみようとするパターン、『大工調べ』、『骨釣り(野晒し)』のように直接、誰かから促されたり体験談を聞き出した内容の再現を試みるパターンなど、幾種類かありますが、何かお手本になるものをマネる点が共通。
余談ながら、『時そば』を先日、小三治のCDで聴きましたが、首尾よく一文儲ける人とそれを観ていて真似をしてしくじる人とで、蕎麦の食べ方を演じ分け(前者は江戸っ子好みのコシのあるさらっとした細麺、後者は食感の冴えない太麺)、それが音源だけでもよくわかるのはさすが名人芸だと感じました。


多くの場合、マネる対象は望ましい(自分もお零れに預かりたい)お手本ですが、そうでないお手本、たとえば幼児に暴力的な映像を見せると、後でその影響を受けて暴力的な行動をしやすいことが知られています。ある研究結果(L.Eron,et al.(1972)`Does Television Violence Cause Aggression?` American Psychologist,27:253-262)によると、9歳時に暴力シーンが含まれたテレビ番組をよく観ている子供は、10年後の19歳時に測定した攻撃性も高いと論じています。
最近テレビドラマは刑事ものが一つの流行りですが、大概冒頭に殺人シーンが出て来ます。生々しいものも少なくないので、ただでさえ携帯機器で戦闘ゲームに興ずる子どもが多いところへ残虐な光景の日常化が進むと、現実感を伴わない(生身の人の痛みがわからない)攻撃行動が加速する可能性も否定できません。


ところで、ここで取り上げる『看板の一』は博打の話ですから、望ましくない人真似に属しますが、大儲けできると思った瞬間に当てが外れる落差の大きさが可笑しみを誘います。