「忙しい」について(その2)

さらには、複数の人から職場で「忙しくてトイレに行く時間もありません」という訴えを聞いたこともあります。
「どんなに忙しくとも、非常事態の方を先に解決したら」と思うのですが、ほんの数分のゆとりもないという強調表現なのでしょうか。
仕事や課題の中身が複雑化してくると、何が最優先課題かわかりにくくなりがちです。
時には、「忙しいから本来業務をやっている暇がない」旨の本末転倒のような嘆きを聞くことすらあります。
この場合、「何をしていて忙しい」のでしょうか。
よくあるのが「雑用や形式的などうでもいい仕事が多くて」という答。
でも、「意義の乏しい用事を減らしたり省略したりして、本業に限られた力を注ぎましょう」という提案や空気が生まれることはあまりないような気がします。
もしその仕事が対人サービスだったら、顧客に被害が及ぶことにもなりかねません。
「うち(の店、会社)は(内輪の雑用等が)忙しいから、お客さんの相手をしている暇はありません」という理屈はサービスを受ける側にとって理解しがたいものだと思います。
でも、いつか取り上げた「いわゆるお役所仕事」をはじめ、これに近い受け答えは案外ありそうです。


また、異動で職場を変わるたび必ず「いやー、忙しい!」を連発する人もいます。
それぞれの職場を比較してみると忙しさの違いが一目瞭然であるにもかかわらず。
一方で、傍目からも明らかに2人分、3人分の仕事を一人で黙々と文句も言わずこなしている人もいます。
業績・成果主義に基づく人材評価の際、仮にさほど忙しくなくとも「私だけが忙しい」と主張することが「努力している」とプラスに働く要素があるかもしれません。このあたりは職場風土やジャッジの視点によって大きく異なり得ますが。
つい先日発表された労働(経済)白書では、短期的な業績・成果の評価よりはむしろ長い目でじっくりと人を育て、それぞれの持ち味を引き出していく(一種の形成的)評価の意義を見直す動きに注目しています。
外見上の「忙しさ」は、現実に評価と多少関係しそうですが、それが仕事の組み立てによるものか、個々人の仕事能力の差によるものか、職場の人間(勢力)関係か、あるいは一部がただ忙しがっているだけなのか、中身の適切な評価一つとっても結構難問と思われます。


「忙」は「心を失う」と書きます。
忙しさは必ずしもよい結果をもたらしませんし、その平静でない状態に接する相手に不安や、時には不快感をも生み出します。
できれば、無用な忙しさを極力なくすことによって、本来の「心」を取り戻すきっかけとしたい気もするのですが、果たして「忙しがり」症候群の人は賛成してくれるものやら。