絵画の見方について(その2)

まず、はじめは「ブヴィエの壺」です。
謎解きのような話ですが、オルセー美術館所蔵の名画≪パティニョル街のアトリエ≫(ファンタン作、マネ、モネ、ルノワール、ゾラなど有名な芸術家が揃い踏み)の脇に描かれた陶芸家のブヴィエによる壺が、「西洋の伝統」と「日本の影響」を統合する「新しい芸術の象徴」だそう(弁証法の正−反−合みたいですが)。
そして、同じ頃のバジール(上の≪アトリエ≫の絵の中にも登場)作の≪芍薬と黒人の女性≫にも同じ壺が描かれている(これは著者の新発見みたい。)ことをヒントに調べてみると、美術史では看過されていたファンタンとバジールの交友が明らかになったとのこと(もっとも、どちらの人も日本での一般の知名度は低いと思いますが。だから、この2人が実は親友だったと聞いても「それで?」という話にしかならないのでしょうね。)。
マーの素朴な疑問は、2つの絵に描かれている壺は確かに似ているのですが、「同じかなぁどうかなぁ」という感じが否めないこと。テレビの鑑定団にでも調べてもらいたいくらい。
さらに、両者が同じ壺だったとして、それで友情の深さがどこまで測れるのかどうか。壺は二人の接点を窺い知る一つの情報に過ぎないんじゃなかろうか。
著者が探偵か捜査官だったら、壺一つからたとえば不倫関係も暴いてみせるのではという、天才的(あるいは独断的)な推論のように思えるのです。
新書版の限られたスペースでは説明が尽くせず専門文献でこれらのひっかかりは氷解するのかもしれませんが。


もう一つは、こちらは有名なマネの『草上の昼食』がなぜスキャンダルになったかの推察です。
描かれている全裸の女性は原因でない(「19世紀後半、パリ画壇は女性のヌードくらいでスキャンダルになることはなかった」(『印象派の誕生』p.57))らしい。
真因の一つとしては、そばに脱ぎ捨てられた当時流行の衣服や美味しそうな食べ物が描かれていて、問題とならなかった超自然界の裸のニンフではなく、現実に普通に生活する女性と考えざるを得ないこと(そこにマネによる挑発もうかがわれること)。
さらには着衣の右側の男性の人差し指は世俗的な欲望を象徴する蛙を、親指は高貴な精神を象徴する鳥を指し示しており、当時のパリが抱える光と影を暗示していることなどが挙げられています。
でも、どうでしょう、素人見では、着衣の男二人にほぼ密着する形で一糸まとわぬ女性が一人なんともない風に木陰でくつろいでいる組合せの違和感こそが、スキャンダルの引き金になったのでは。
著書で説かれている理由は玄人が読み解いて初めて引き出される類のもの。
芸術作品が騒ぎになるのは、パッと見、第一印象が大きいと思うのですが。


玄人の(おそらくは正しい)深読みと素人のいい加減読みのいずれをも、大きな自由度で導き出しうる(たとえ間違っていても、それはそれでまーえーやんという)点で、やはり名画のおもしろみは尽きません。