幸福感について(その2)

まず、あっさりとらえるなら、たとえばダウンタウンの浜ちゃんがTV『ダウンタウンDX』で芸能人を先日目撃したという視聴者ハガキを読み上げる最後に付け加える「死ねばいいのに」の感じです。
これは「ファンが見てるかもしれないのに何しとんねん」という愛情を込めた軽い喝といえなくもないでしょう。
「死ねば」の前に「豆腐の角に頭をぶつけて」を付してもいいくらい。
一方、文字通りとらえるなら、「自分の人生を自分らしく生きる」責任はほかならぬ自分にあり、仮にそれがうまくいかないからといって他人に責任転嫁したり不幸の只中に身を置いていては、いつまで経ってもこの世の中で幸福感は味わえないから、それを嘆き続けるくらいなら「死ねばいいのに」と究極ともいえる問いを投げかけているともいえそう。
確か、ボクシングの元ヘビー級チャンピオン、ジョー・フレイジャーの言葉に「自分の人生を自分ほどよく生きられる奴はいない」というのがあったと記憶しています。
聞いたときは、なるほどくらいにしか感じていなかったのですが、自分の人生を誰よりも詳しくふり返り、その見方を自分に一番望ましい方向で修整したり、希望につないだりできるとしたら、それは他ならぬ自分がやるしかない。
もちろん思いがけぬところで誰かに助けられて初めてできる要素が大きいものの、誰かが自分の代りまでしてくれたら「自分の人生」ではなくなってしまう。
幸福感といってもこれで十分とはなかなかいかず「今よりもっとこうなら更に幸福」ということになるのでしょうが、「もっとこうなら」の部分は「不幸」の種とするのでなく、自ら少し割り引いた上で「希望」に分類する覚悟(時には諦め)ができれば、壮大な政策目標としての最小不幸社会の実現を座して待つことなく、今このときから、わずかでもより幸せに過ごすことができそうな気がするのです。