愛宕山(その2)

注意を傾けたものとそれ以外とがその人の中でどのように区分けされるかを探る考え方の例として、雑踏の中でも注意を向けている人の会話をかなり聞き取ることができる「カクテルパーティ効果」という現象があります。
この場合、周囲のざわざわした音はうまい具合に無視されるわけで、どうして物理的な距離にかかわらず狙った音情報をとらえることができるのか完全には解明できていないようです。また、ノーマークの音源であってもそこから自分の名前など馴染みの情報が含まれているとそちらは察知できることが多いのも知られています。
この噺に登場する幇間は、まず、小判の落ちている谷底に辿り着くためだけに、傘をパラシュート代わりに用いて着地しようとする⇒次に小判を全て拾い集めることに専念⇒「戻って来いよ」と言われて、地上に再び帰って初めて目的が完遂できることに気づく⇒褌を裂いて縒り合わせ大木の枝に括り付けた反動でジャンプすることを思いつく(このとき、小判のことはout of 眼中)⇒奇跡の生還により、若旦那から「見上げた奴だ、一生贔屓にしてやる」と幸福の絶頂に達した直後に、小判を谷底に忘れて来たことがわかり「ガッカリだよー」となるわけですが、それぞれのステップでものすごい一点集中しそれ以外のことは完全に忘れ去ることができているのが「愚か者」と一言で片付け切れないところです。
大げさながら、幇間の極限ともいえる「今ここに生きる」姿勢、人生の皮肉な浮き沈みがこの落語を観終わったときの余韻です。