手水廻し(その2)

この落語の可笑しさはおそらく、村一番の長頭男が頭を廻してくれと頼まれたと勘違いして、高速回転し目を回してしまう場面と、主人と板前が手水をありがたく飲もうとして苦しむ場面にほぼ尽きる気がしますが、むしろそれ以上に、「わからないことは恥ずかしがらずに謙虚に聞く」ことが他者や異文化を理解する第一歩になることのヒントを読み取りたい気がするのです。
マーは学校時代、質問をしない生徒でした。「何を尋ねてよいかわからない」以上に「こんなことを聞いたら馬鹿にされはしないか」を気にする器の小さな人間だったと思います。
この感覚は社会人になってからも劇的に変えることはできませんでしたが、ある程度調べた上で、わからないことをその道の人に尋ねる際の気兼ねは減り、時には「わからない僕にもわかるように説明してこそ玄人ですよね」と居直ることさえ少しはできるようになりました。尋ねる楽しみもようやく知りました。学生時分と違って、仕事の必要に迫られての変身だったかもしれません。
相手の話を聞かずに、自分と違う慣習を思いやることなしに、不確かな情報や憶測により敵・味方や善・悪の区別を、多くは単純に二分できないにもかかわらず、ついしてしまいがちです(この方が楽だから)。
でも、ちょっと人に尋ねてみれば、自分にはわからないように思える他者の感性やクセをありのまま見つめてみれば、あるいは物事から少し離れてもう一度眺めてみれば、思わぬ発見をしたりして可能性を拡げるきっかけになることが案外あるのではないでしょうか。
手水廻しの噺から些か脱線してしまいましたが、ふとこんな思いを巡らせた次第です。