お経との付き合い

《このところ、まとまった仕事があってブログを書く心のゆとりがありませんでした。
似たような仕事のピークは6月にもあり、その際の経験が生かせそうなものなのに、学習効果なし。
むしろその時より雑用が増えてしまって手間がかかっています。
「戦略的手抜き」は言うは易く行うは難し…》


通勤時間2時間の使い方にはいろいろありそうですが、マーの場合はこんな感じです(帰りも同様)。
○自宅⇒最寄駅…『修証義』(「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり。…」(生が何か死とは何かを明らかにするのは仏教徒の最重大事である。…))の暗誦
○駅につながる長いエスカレータ(昇り切るまで2分弱)…『般若心経』の暗誦
○電車(その1)…富士山やきれいな朝焼けが車窓から見えるときは外を眺めます。見えないときは適宜『開経偈』、『懺悔文』、『十三仏真言』、『光明真言』、『祈願文』などの暗誦
○電車(その2(乗り継ぎ後))…仮眠
○バス(駅前⇒職場前停留所)…『法華経』壽量品第十六(「自我得佛來…」(じがとくぶつらい=私(釈迦)が仏になってからというもの…)全510文字)の暗誦


暗誦するお経は標準的な組み合わせから外れているかもしれませんが、全体を20分程度で再生できるこの分量がちょうどくらいかなと感じています。
その間は漢字づくし(一部はひらがなづくし)で意味も正確には理解しきれていない文言を思い出すのに精一杯で雑念に襲われにくいというメリットがあります。
ただし、巷にある本のように「唱えれば無心になれる」ような魔法のお経は見当たりそうにありません。
平常時にとらわれやわだかまりから幾分解放してくれる先達による生活の知恵のようなものではないでしょうか。
たとえば、海や川で溺れかかっている人が「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」だけでは楽になったり救われたりするわけもなさそう。
何事にも効用と限界があります。


通勤時間が長くなかったちらこんなことは思いつきもしなかったでしょう。
これからお経とどう付き合っていくか自分でも見当がつきませんが、生活の一部になりつつあるのは事実です。
職場が遠くなったことに伴う想定外の副産物。
意外性が人生のおもしろいところかなと改めて感じています。