他人と比較しても仕方ない(その2)

不幸を招きやすい比較の代表格は、外見や数字で勝ち負けが目に見え、負けた方がネガティヴな感情を抱く類のものです。
これは価値観や思考の硬さと関連することが多い。
たとえば、「試験は高得点の方が立派」(多くはそのとおりですが、入学試験などは最低点でも合格すればよし(苦労せずに及第点を取るのもスマート)という考え方もありそうです。)、「コンテストは1位でなければ意味がない」、「安定した会社等組織で役職につけば人生の成功者」などの発想に立つ限り、より優れた成績や結果を出すことが至上命題になり、それができなかった者はできるような手立てを講じる(努力する)か、あるいは、敗者に甘んじる(さらには払拭し難いコンプレックスを抱えて過ごす)話になりそうです。


でも、この発想を突き詰めていくと、それぞれの分野で勝者はただ1人になってしまいます。
それ以外の人はただただ劣等感に苛まれなければならないのでしょうか。
「そんなことない。まー(そこそこで)えーやんか」。
実際、多くの広い意味での仕事は、ただ1人のカリスマがやるよりはむしろ、長所も短所も併せ持った完璧ではない人が何人か集まったり助け合って、それぞれの持ち味や芸風を活かしながら進んでいくことが多いのでは。


勝ち負けが見えるものの多くは、おそらく「勝つに越したことはない」程度のものではないでしょうか。
たとえば、貧乏よりはお金持ちの方がいいに決まっています。へそ曲がりや特別な信念を持つ人を除いては。
でも周囲と比べたところで、自分が裕福になるわけもなし。
そんな虚しい比較をする時間があったら、今の経済力の範囲で自分らしい夢やプランを描くのに当てる方が、同じ時間を生き生きと過ごせそうです。


それに、能力一つとっても「大器晩成」という場合もあります。
早くから才能が開花しなくとも(早期教育には光ばかりでなく影の側面もありますし)、いつか大成すると信じるくらいなら実害はありません。
自分の能力を過信したり、運恃みに終始してしまうと幸せからどんどん遠ざかってしまいそうですが。
ある時点で自分が劣っていると決めつけてしまうのも虚しい感じがします。


平均的には大したことなくとも、自分の日々のわずかな進歩を大切にしていけば、その中に喜びが見出せることだってあるかもしれません。
他人や世間相場との比較、あるいは日本人に多いといわれる、いわゆる「世間体」を価値判断の基準にするのは、自分を見失う副作用を伴うことに注意したい気がするのです。