『堪忍袋』と赦しについて

前回取り上げた『堪忍袋』のように「怒りを甕や袋の中に吐き出して、スカッとしたらあとは笑っている」というタイプの人は案外少ないかもしれません。
やや屈折した形ながら、ストレス源の相手を咎めないのは「許す(赦す)」ことに近く、そんな広い心の人はそうそういないと思われるからです。


今、テレビなどマスメディアの頻出語句を探ってみたら、上位に「許せない」という言葉が出てくるのではないでしょうか。
最近インタビュー記事で見た「テレビのニュースキャスターたちが『こんなことが許されていいんでしょうか』と眉間に皺を寄せるシーンが許せない」という趣旨の発言(神戸女学院大学内田樹教授、週刊現代10月9日号)など、「許せない」人を「許せない」パターンまであるくらいですから。


許せるかどうかの物差しはいくつかあります。
たとえば、法令のような公の定めに照らした際の違反や、法違反でないまでも一般的な常識からの著しい逸脱に対する反応は多くの人に共通するでしょうが、正義感や感性は人それぞれだけに許容範囲の広さは個人差がとても大きいと思われます。
許してばかりいるとつけ込まれて損害を被るという状況では、自己防衛も働いて強硬姿勢になりがちだし、期待を裏切られた落胆が怒りや恨みを増幅することもあるでしょう。
一方、「何があってもあいつに限って許す」という人間関係もあり得ます。


結局のところ、理屈よりは感覚的な問題ともいえそうですが、全体として「眉間に皺を寄せる」人の顔に触れる機会が増えているような気がします。
人を許せないことは、その人と自分との間に線を引いたり、何かのあやまちのみならず往々にして人格そのものを否定したり、場合によっては無視・排除や攻撃にもつながります。


せめて、許せない物差しが曖昧で、自分の考え方を少し改めてみると大目にみることもできそうな場合くらいは、「許せない!」と断じ切ってしまわない程度の心のゆとりが持てれば、不本意ないざこざを少しは減らすことができるのでは。
「許せない」気持ちを長く抱えているのは自らの精神衛生上もよくありません。
甕や堪忍袋(『クレヨンしんちゃん』では、うさぎのぬいぐるみにパンチを浴びせる、確か、ねねちゃんという女の子とそのママがいましたよね)がなくとも、それに代わる緩衝材(ものに限らず、座禅などの作法や深呼吸など気分転換の類も含まれます。)を探してみるのも一法かも。
ただ、先日深夜の電車内で「嫌なことがあったの。今から聞いてよ」と一方的な携帯電話を友達に入れている女の人がいましたが、相手が気の毒なので人を堪忍袋代りにするのはおすすめしません。