過去をふりかえることについて(その2)

過去をふりかえることの意義について一律の答はないように思います。


「歴史に学ぶべし」という向きもありますが、生活上の知恵を除けば、自らのこれまでに学ぶべきものが果たしてどれほどあるのか。
学ぶ対象と自分との距離が保たれて初めて冷静に参考材料とすることができるのかもしれません。
同時に自分から離れた対象の教訓なりがそのままの形で役立つことは少なそうです。一人ひとりそれぞれ異なるのですから。
もし、あらゆる物事が基本的には因果律に従うのだとしたら、過去の割合が高くなればなるほど、「これまでのこと」が今やその後を規定するという考え方がもっともらしく聞こえます。
過去をふりかえることでこれからの限界がよりくっきりし、達観や諦めに近づくんじゃなかろうか。


一方、「過去は追うな」(『一夜賢者之偈』より)という言葉もあります。
しかし、「今ここだけ」に心を傾けることは、結構難しい。
過去(自分にとって輝かしく映るものや悔いが残るものなどさまざま)の出来事が脳裡を過ぎり、現在の思考や決断を鈍らせる要因となりがちです。
ふりかえろうとしなくとも、過去にとらわれている自分にふと気づくことがないでしょうか。


さらには、時を超えた出来事や生き物同士の出会いや共振の上に今の自分があるという感じを抱くこともあります。
理屈では割り切れない、でも時の前後や場所の遠近を超えて自分と関わっている何かの存在の予感。
中村雄二郎の「リズムの共振」(『問題群』岩波新書)という表現は、著書全体がわかりやすそうに見えて私には難解だった中で、直観的に納得できたような気がしたことを思い出します。


このように、考えれば考えるほどわからなくなる、過去やあるいは時系列ではとらえきれない環境と今の自分との関係ですが、変えようにも変え難い厳然とした過去や、自分では望んでも律しきれない周辺環境の存在がやはり大前提になるのだと思います。
たとえば、過去を書き換えてみても現在の自分の価値が高まるものでもありません(巷に出ている回想録の類は、あまりに主人公が立派すぎる感じがするのは気のせいかなぁ)。


「過去は過去として、測りがたい自分を取り巻くものの動きにいたずらにとらわれることなく(自分では如何ともしがたいのだから)、これから先に向き合っていく(ただし、修行ができていないので、つい油断してこれまでのことや根拠のない観測などに揺り動かされるのは仕方ないとして)。ささやかでも希望は忘れずに」を、取りあえずの世渡りの心構えとしようかなと思っています。