みんながそうだから(その2)

このあいだ森毅先生による「やたら『みんなこうするもんや』とか『誰でもこうしてるんや』と物事を単純に断定したがる『おじさん化』」のことを取り上げましたが、「みんながそうだから、自分もそうしよう」という傾向は根強いと思われます。ここでの「みんな」は必ずしも全員とは限らず、自分の周辺にあるわずかな例からの憶測に過ぎないことが多いのですが…。
ただ、この傾向は思考停止につながりやすい危険や脆さを孕んでいます。
心理学の古典的実験では、正解が明らかな線分の長短を答える課題で、わざと間違うサクラ(本来の実験参加者以外全員)の誤答に自分の答を合わせやすくなること(同調)が示されています(アッシュ(Asch,1951)の実験では、サクラが「あり得ない」答をするたびに「ウソッ!」と驚いて、教室の中で示されるごく簡単な問題に大きく身を乗り出して苦悩する実験参加者の表情が印象的です。)。


また、悩みの程度が大きいほど、うまくいく確率が低いほど、今度は逆に標準的な答から逸脱して百に一つもない奇跡的な成功例を求める気持ちが強くなるみたいです。
奇跡は再び起きる方が不思議なのに、自分もそうなるという幻想にとらわれやすい。
偶然の幸運が再び絶対起きると信じて疑わない「賭博者の錯誤」という言葉もあるくらい。
「…自分の直観を大事にしなければなりません。でも、その直観に取りつかれてはなりません。そうなると、それはもう、激しい思い込み、妄想となって、その人自身を支配してしまうのです。直観は直観として、心のどこかにしまっておきなさい。そのうち、それが真実であるかどうか分かるときがくるでしょう」(梨木香歩西の魔女が死んだ』より)に同感です。
考えない方が楽だから、大概のことを判断する際は他人の多くがどうしているかに傾き、それではうまくいきそうにないときは、根拠の乏しい希望的観測に流されやすいのは、人間の性と言えるのかもしれません。


他ならぬ自分の問題については、常識とされている(と思い込んでいる)ことや他の人のケースが自分にどの程度当てはまるのか冷静に見つめてみた結果、それらを本当に参考にし得るのかどうか見当がついてくるのでしょう。
たった一人で見当をつけるよりはむしろ、「盛岡のおっちゃん」さんがいわれる「部分のみんな」を頼りにするのもいいかもしれない。
それにしても「冷静に見つめる」のは難しいことですけれど。