みんながそうだから(その1)

どうしたらよいかわからなくなったとき、よく使うやり方の一つは、今自分がぶつかっていることと似たようなケース(他の人はどうしたか)を探すことでしょう。マーは手術を受けて以来、同じ病気に罹った人の例や闘病記を幾度となく調べました。


病気に限らず、たとえば学校で習う数学の問題の解き方がわからないとき、何日も考え抜いて独自の答を導き出す人もいれば、英語の辞書をひくように類似の問題をいろいろな本で調べて、そこに書いてある標準的とされる解答を参考にする人もいます。
脱線しますが、高校時代、宿題の問題集に載っていた大学入試の難問を解く意欲も実力も不足していたので、学校の図書館で『入試問題正解』という電話帳のような分厚い本の解答例(当時は必ず正しいと思い込んでいたこれらの中に時には誤答もあることを知ったのは、大学生になって家庭教師をしてからでした。)を丸写ししていたことがあります。
ところが同じことを考える同級生がいたようで、当の正解部分のみ切り取られていてお手上げだったことを思い出します。


そのような数学の模範解答を見ても時にはさっぱりわからないことがあったり、まれに標準的でないびっくりするような、よい解き方が見つかったりするのと同様、生活上の問題については尚のこと誰にでも当てはまる唯一の正解はないし、一見普通でないやり方が案外結果的にはよかったということもあります。
何事も多数決で決めてよいものなら話は早く簡単ですが、多くの人の選んだ答がそのまま自分の直面している悩みの答になる保証はありません。
私見ながら、報道等で多数意見=正しい考え方という論調が目立ってきた気もしますが、やってみなければ、それが正解なのかどうか見当すらつかない場合も少なくないはず。
しかも、それが一旦行動に移せばやり直しや後戻りができない性格のものであればなおさら、「少し立ち止まってよく考えてみる」必要がありそうです。