何をしたいかわからない(その2)

「何をしたいか」で進路を決めるのが容易でない以上、「何をしたいかわからなくとも行動はできる」のだから、期限を定めて割り切って一種の見切り発車をすることも大切なのでは。
「生きがいがない、となげく人は、自分の主観的な感じにとらわれすぎているのではなかろうか。自分というものに執することをやめれば、目の前に現れ出るしごとや楽しみに身を投げかけて、対象そのものになり切ることができる。そのときには、生きがいを自分が感じているかいないかは問題ではなくなる」(『人間をみつめて』神谷美恵子著、みすず書房 (p.118))

「自分というものに執する」自分探しのベテランがいわゆる年長フリーターかもしれません。
例外はあるにしても、30歳くらいまでに「何をして生きていくか」(食べていく手段や、誰と(あるいは一人で)どこで過ごすかなど)を好むと好まざるとに関わらず、ある程度自己決定する必要がありそうです。
この自己決定は、同時に無限にあったはずの選択肢の大半を捨てる(あるいは夢の一部または大半について思い切った先送りをする)性格を帯びます。


自分にぴったりの生き方や自分らしい姿やありようは、そう簡単に見つかるはずもなし。
「何をしたいかわからない」こと自体はさほど恥ずべきことでもなく、むしろどこかの時点で自分を仮決めして取りあえず一歩踏み出してみる思い切りの方が長い人生の中で意味を持つように思います。
行動してみて初めて「何をしたいか」見えてくる面もきっとあるはず。
つい先日亡くなった森毅先生は「やたら『みんなこうするもんや』とか『誰でもこうしてるんや』と物事を単純に断定したがる『おじさん化』が若者に目立つ」(2005年11月11日付け毎日新聞)と述べておられましたが、自分の問題だから、世間相場にとらわれず、たとえカッコよくなくとも取りあえずでもよいから、自分なりに納得できるやり方で、できれば20歳代のうちに自ら進路について決断することを若者に奨めたい気がします。