幼児には文脈がない(その2)

愚息が電車の座席に座っているとき(2歳の頃)、こんな発話もありました。
(車中から停車中の他の電車を見て)「電車、ネンネ」
     (後ろの座席振り返り)「おじさん、ネンネ」
電車は彼の中ではおじさん同様、生き物だったみたいです。
このように事物に人格を与える特徴を心理学用語では、「相貌的知覚」(physiognomic perception)(かえってわかりにくくなってない?)と呼んでいます。
昨日、「小さい子どもは、笑わせるというねらいなしに可笑しなことを言ったりしたりするお笑いの名人」と記しましたが、逆に大人は「笑わせようとして結局スペル」ことも多いと思います。
先日、テレビにユーモア学会会員とやらの大学の先生が出演し、「こんな面白いジョークがあります」と紹介してくれるものの、「どこがおもしろかったのかサッパリわからん」の連続ということがありました。
「面白い話が…」と切り出すところで、既に視聴者に構えをさせ、要求水準を上げてしまっています。幼児の自然さがありません。
ユーモア学者(?)が用意する笑いの仕掛けとしてはいかがなものか。
「わざとらしさ」や「(人それぞれの受け止め方はあまり考えないまま)この話はお笑いですと断定しようとする姿勢」が逆効果になっていたのかもしれません。
そういえば、『ユーモア辞典』(秋田實著、文春文庫)は、全10巻分が予定されていた(実際は著者の急逝により3巻どまり)労作ですが、マーの鈍感さもあってか、笑える話は全体の3分の1ほど。巷のユーモア本の類で本当におもしろいものは案外少なそうです。
その点、落語はライブが一番ですが、寄席の音源を基にした本を含め、大したものだと感じます。
先日、新聞(2010年6月18日(金)朝日朝刊)に柳家小三治さんの談が紹介されていました。
「一口に『笑い』って言いますけど、私は落語の場合には付きものではあるけど、必須や義務ではないと思ってます。結果的に笑っちゃうものはいいんですけど、笑わせることはしたくないですね。私が楽しんではなしていると、それに乗ってきて笑うお客さんとは、時を同じくもつ者どうしの『同志』です。…(中略)…笑わせるのは落語の本意ではない。…(中略)…それも引きずり込むんじゃなくて、知らないうちにその世界に入ってるような空間が生まれたら素晴らしい。ふっと気がついてみると、景色が見えて、登場人物を演じている噺家は消えてるんです。」
ここで言われている「空間」は、相貌的で、文脈のない幼児が生まれ持っているのに近い、自由闊達なもののような気がします。