学校に行く理由(その2)


愚息が通っていた小学校の授業参観日に、クラスの生徒が授業中席を離れて思い思いの行動をしている中で、教壇の先生がその状況お構いなしで教科の説明をしていた光景を見て愕然としたことがあります。
それでも大半の生徒は機嫌よく通学していたのだから、高校全入に近い今、小中高で「学校に行く」理由を尋ねること自体、意味がないのかもしれません。
ただ、様々な事情で行きたくても行けない生徒が機械的に退学や留年にならないで卒業の途が開かれる寛容な学校空間であってほしいと願っています。
一方、大学に行く理由の方は、全入でないだけに前提が違います。「切符論」が本当なら大卒の中でさらにプレミア切符と普通切符に分化するのは自然の流れできりがありません。
むしろ、大学の学科は世の中のありとあらゆる分野に多少は関わっているから、どうせなら、学科に籍を置いて教わったり考えることを自分のやりたいことに近い内容にしておけばお勉強の苦痛も軽減され、うまくいけば趣味と実益を兼ねて専攻内容と付き合い、ついでに異性とも付き合えて一石二鳥という、いい加減な理屈でどうでしょう。
大学での勉強(特に文系学部)が実社会の職業生活等で役に立つか(「職業的レリバンス」とか言うそうな)についても、直接役に立たないまでも全く無駄とまではいえないと思います。例によってマーの大雑把な仮説は、「全くムダなものはあんまりないし、ムダのはずが後で思いがけず役に立つこともあらーな」です。役に立つかどうかなど今すべてわかるわけがない。その意味で「役に立つことだけ勉強せよ」というのは、ほとんどナンセンスなのでは。
どうやら学校に行かなければならない確固たる理由は義務教育を除けばなさそうです。それなのに、たとえば不登校生徒に「学校に行こう」と促す意味があるとするなら、「今できないことができるようになる(学校へ自力で通う元気を取り戻す)」時点でその子にそれまでにない力が備わり、地平が開ける可能性を信ずるから」に他ならないと思うのです。