学校に行く理由(その1)


早朝出勤のマーは、幼い小学生がまだ暗いうちから遠くの私立(名門?)校に電車を乗り継いで登校する姿に毎日接して「大変そうだなぁ。眠いだろうなぁ」と気の毒になります(本人は幸せだと思っていたら、それこそ余計なお世話ですが。付添いの親の方が幸せそうに見えるのは思いすごしでしょうか)。
小中高の子供たちに「学校になぜ行かなくてはならないか」の質問をすると、「わからない」の答が多そうです。学校嫌いの子は行く意味を見出せないか、行きたいが行けないのだし、学校好きの子は「学校に行くなんて当たり前。理由なんかいるの?」に近いのですから。
学校に行く理由をまじめに考えてみても、やはりすっきりしません。明治時代以来、学校や教育制度が為政者の国家思想と密接不可分であることは、大学生のとき日本教育史の講義を受けて自分なりに納得しました。「お上の命令だから」の一面もあるでしょう。
人の発達の観点から「社会との接し方を体得するため」という答もあり得ます。対人的な面倒から逃れて愛生園に入所したハンセン病患者の例をみても、「行く先がやはり人間の集団であるかぎり、そこでまた他人と一緒にやって行かなくてはならない。そのためには皆と同じ価値体系をうけ入れ、そこの規律や習慣に服し、集団の一員としての責任も果たしていかなくてはならない」(神谷美恵子『生きがいについて』(p.167))のですから。しかし、集団の中でやっていく練習の場を学校空間だけに限定する道理はなく、「学校に行った方がいい」くらいがせいぜいでは。
「みんなが行くから」という答え方もありです。高校進学率は今やほぼ100%。大学進学率も半分を超え、私が大学入学した頃の既に倍。生活する上での格差の大部分は、計量分析してみると学歴要因で説明可能とする学説、「日本の若者たちは、高校を出るときに『大卒』あるいは『非大卒』という人生の切符を渡されますが、その切符で人生のチャンスやリスクや希望が大きく左右される」(大阪大学・吉川徹のいわゆる「切符論」)というものまであります。