悲劇と喜劇は紙一重(その1)


(昨日も近くに花見に出かけました。関東○○選のような名所ではありませんが、優るとも劣らずです。目立たないところに素敵な場所が結構あるみたいですよ。)
ところで、中学生の愚息のかつての宿題に「『坊ちゃん』は喜劇か悲劇か論ぜよ」という難しい課題がありました。夏目漱石の研究家の中では既に決着がついているのかもしれませんが、この宿題は、正解を求めたものというよりはむしろ「中学生らしい発想と論の運び」を見たいという趣旨で出されたのだと想像します。
まず、喜劇や悲劇の定義がいりそうです。中学生向けだから「笑える話」か「救いのない話」かで取りあえずはよいのかもしれません。試みに「インターネットのヤホー」(漫才コンビの『ナイツ』風)で調べてみると、次のような定義がみられます。
「ハッピーエンドで終わるもの」、「悲劇のように物語の始まりと終わりで中心人物が亡くなったり変わったりしないもの」、「ものごとから距離を置いて客観的な視点から描かれたものが喜劇、ものごとの渦中にあって主観的視点で描かれたものが喜劇」(いずれも文章の断片で私なりに理解できる表現に改めています。)などの見方がありました。これらの見方を参考に、ここでは試みに『坊ちゃん』が喜劇であることを述べてみます。頭の体操ですから、悲劇として構成することもできそうな気がしますが、取りあえず。
まず、「笑える」点については、親譲りの無鉄砲な行動の数々や中学の校長・教頭・教員につけたあだ名は文字通りコミカルですが、それ以外の部分で可笑しく読める箇所を文章のまま抜き出すと、「『なもしと菜飯とはちがうぞな、もし』といった。いつまでいってもなもしを使うやつだ」や「(赤シャツに靡いたマドンナを非難するのに)ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫っ被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでもいうがいい」などは江戸っ子の啖呵の趣があります。