物覚えについて(その2)

暗記に苦痛を覚える人は少なくないと思います。
特に適切な時期や目的を定めず闇雲に覚える(覚えさせられる)のは、苦行に近い。
時々テレビで、世界の国旗をみんな覚えた幼児なぞが登場しますが、親の厳しい命令でもあるのでしょうか。
中には特訓を苦にしない子どもや、目の前の面白くない作業を親が喜んだり褒めたりするのを思い描いて、楽しく感じる子どももいるのかもしれません。


暗記力が優れていることを幼少期から自慢するのにあまり意味があるとは思えません。
早期教育というもののメリットがよく論じられるものの、何でも早ければよいこともなさそうです。


記憶範囲という言葉があります。
たとえば、新たに覚えてから50%の正答率で再現(再生)することのできる数字は、大抵の人が7±2(5〜9)だそうで、この桁数を記憶範囲と呼びます。
覚える対象の分量が多いとリハーサルして記憶をつなぎ止めようとする端から忘却が生じるため限界ができると考えられています。
ところが、この記憶範囲は早口の人ほど大きいことが確かめられています。
幼児は成長するにつれて口が達者になり、話すスピードも一般に速くなるので、記憶範囲は年齢とともに上昇するといわれています。
だとすると、暗記力を鍛える時期も少し遅めがよいのかもしれません。


また、何を覚えるかも大切です。必要に迫られて必要最小限の量なら暗記のし甲斐もあるというものです。
量だけたくさん覚えても役に立つものと立たないものがあります。
時間は有限、記憶力も当然有限となれば、限られた時間と能力に見合った効率的な暗記が望まれます。


もっとも、私のお経暗記について言えば、きっかけは亡父の供養をするのに手元にあった薄い経典を眺めたことで、記憶の対象もはっきり定めず、行き当たりばったりで、タイミングとしても忘れっぽくなって来た年齢で、理想から逸脱すること甚だしいですが。

物覚えについて(その1)

マーはどちらかというと物覚えがよかった方だったと思います。
過去形になっているのは、今はさっぱりだからです。
若い頃は会合などで初対面の人10名ほどに会って、ほどなく各人の顔と名前を一致させることができました。


今は以前書いたように、お経を覚えながら通勤していますが、これがなかなか思うようになりません。
少しでも邪念があると覚えが悪くなったり、再現(再生)速度が落ちたりします。
日によっても記憶の正確さが変わるようです。
お経だから、それこそ諳んじる必要があるのですが、意味をあまり弁えないで覚えている関係か、どうしても数%くらいうろ覚えのもやもやした部分が残ってしまいます。
自分の血肉にするのには時間と心の平静が必要みたいです。


本の学校教育は暗記力偏重で、思考力・創造力等をもっと鍛えるべしと批判されることが少なくありませんが、学科に限らず何かを習得するときには必要最小限の暗記は必要と思います。
基本単語を知らずに文献を読むことは不可能ですし、化学式を一切覚えていない化学者もいなさそうです。
法律も条文の丸暗記は不要かもしれませんがどこに何が書いてあるという見当が全くつかなければ、理解はとても非効率なものになるだろうと想像します。


ただし、どうせなら、無理や無駄をできるだけ少なくして記憶したいものです。

『就職超氷河期』に思うこと(その2)

求人の出ている会社を知るにはどうしたらよいでしょうか。


仕事を探す人がまず自覚や問題意識を持って調べてみることはまず大切です。
ただ、個人の努力に限界はあるでしょう。


若者は離転職が多いといわれますが、仕事先を決めるのにイメージで選び、入社してから「こんなはずじゃなかった」とやめる例も少なくないとか。
会社の方もよい情報のみをアピールする傾向はありそうです。
仕事先の実像を個人が調べ尽くして把握するのもかなり難しそうに思います。
会社によっては、応募者自ら直接積極的に応募に先立って、尋ねたり自己アピールしたりすることが奏功する例もあるようですが、これも相手次第。


そうなると、会社自体の誠実な説明に加えて、就職支援を行う業者や機関も求人を出している会社になり変わって、情報発信をしたり、求人と求職の間の調整をしてくれると心強いところです。
派手な出陣式をしていた専門学校は面倒見良くサービスしてくれるのでしょうか。


こういう助っ人を見つけることも仕事を探す人にとって大切なことかもしれません。
マーがかつて見聞した例は、就職率100%を何年も連続で記録していた高校の先生の熱心なこと。
「ご迷惑をおかけするようなことがあったら、私が保証人となって責任を取りますので、まず使ってみてください」と生徒の就職先を一件一件頭を下げて回っておられるとの話でした。
ここまで頑張ってもらえるのは珍しい例でしょうが、この熱意に押されて採用し結果的にその会社に馴染んだ生徒も何人かいたはずです。


仕事探しする本人の努力、それに間に立って支援する方の求人者とのコミュニケーション能力など、人任せでない力の合わせ技で氷河も少しは溶けてくれるのではないでしょうか。

「就職超氷河期』に思うこと(その1)

つい先日、「就職超氷河期打破」の某専門学校出陣式が行われた報道がされていました。
たまたま近くを通りかかりましたが、寒空の中で大勢の若者がスーツ姿で参加していました。


「一に雇用、二に雇用、三に雇用」とスローガンを掲げて雇用問題に力が入れられているようです。
これ自体、大切なことだと思いますが、肝腎の仕事先はどうでせう。
中身の問題もありますが、量も大切です。
仕事を探している人に見合う求人が不足していれば、うまくいかないのは算数でわかる話です。


あるTVの特集番組では、中小企業は4倍を超える求人倍率(1人の仕事探しをする人につき4件以上の仕事先がある状態)だとか。
それらの仕事がどんな内容かはあまり詳しい説明がなかったようですが、調べてみる価値はありそうです。


仕事を探す時、ネットをはじめ媒体を使うか、専門の公共機関や民間の業者を利用するか(TV『フリーター、家を買う』のアンジャッシュ児嶋扮するハローワーク職員は、実態とどう違うかよくわかりませんが、淡々と事務的な応対に徹していましたね。いい人みたいだったですが)、縁故を頼るか、いろいろあると思いますが、肝腎なのは自分の目でその求人をしっかり確かめることではないでしょうか。何より自分の仕事のことですから。


また、就職支援のスタッフはその求人をよく知り、わかりやすくその実像(長所・短所を含めて)を仕事を探している人に伝えてあげれば、新たな可能性が開けて来るかも。


もちろん、簡単な話ではありません。でも、単純に考えてみれば、今ある求人をよく見つめて、可能性に照らして求人と求職のマッチングをしっかりすることから「一に雇用〜」が始まる気がするのです。いくらやる気や能力があっても、仕事先の情報が不足していれば就職にはつながりにくいと思うのです。

退屈について(その2)

日常生活はライフスタイルにもよりますが、時間の制約は仕事場面よりも緩やかになります。仕事の際に退屈を和らげてくれていたものの中には、意外にもルールの類がいくつかありました。

このルールが必ずしもはっきりしない日常生活場面で退屈心を伴った場合、時間をどう過ごすかはかなりの難問です。

一般的にはテレビやインターネットなどメディアの助けを借りることになるのでしょうが、一方的に流される情報で得られる満足感には限界があります。


退屈の克服は「無為」や「つまらなさ」を忘れ得たときに初めて可能となるのでは。
退屈感にとらわれているときにそこから脱却するのは困難です。
ところが、退屈ととらえずに「暇になってラッキ―」とワクワクする人もいますから、人それぞれですが。


退屈を嫌う人についてみると、程度の差こそあれ、誰しも好奇心や関心を抱く分野はあるでしょう。しかし、これらは他から与えられて心地よさを感じるものではなさそうです。むしろ、自分から動き出して初めて空しい時間の経過からわずかなりとも充実感を取り戻すことができるのではないでしょうか。
何か有意義なことを改めて作り出す必要はなく、ほんのちょっとした気分転換(たとえば散歩など)でも新たな展開につながるのでは。


もっとも、日頃からしっかりした自らの得意分野やフィールド(趣味や専門分野に限らず、飲酒のような習慣も含まれます。)が豊富であればあるほど、退屈心のようなものに巻き込まれる心配は少なくなりそうです。
そもそも、「やること(したいこと)がない」=「退屈」ととらえることが適当でないかもしれませんが、これについては、いつか改めて考えて退屈を紛らわせてみたいみたいと思います。

退屈について(その1)

人間と獣を分ける簡単な目安は退屈心を抱くかどうかだという格言(?)を読んだ記憶がありますが、退屈は様々なきっかけでふいに訪れます。
中には退屈と無縁の充実感に満ち溢れた日々を送っている人もいるかもしれませんが、誰しも退屈に苛まれる可能性はあります。


仕事場面での退屈を感じる人も案外いることでしょう。
自らに役割が与えられているかどうかが一つのカギになりそうです。
仕事の納期は普通は一種のプレッシャーですが、納期がないという仕事でモチベーションを保つのは難しそうに思います。最小限の緊張感は必要な感じがします。

これには、やり甲斐との関係もあります。好きなことや得意なことをしているときは時間を忘れますが、そうでないときは時計の針が(アナログ世代の表現になってしまいましたね)進むのが随分長く感じられます。

それでも機械的作業のように、作業そのものが目的なら単調ながらも退屈心まで沸き起こらないかもしれません。たとえば、校正のような定型的仕事が好きな人もいます。

忙しさと退屈とは必ずしも反比例しませんが、目の前の仕事の忙しさに紛れて時間を忘れるという側面もあるでしょう。


こう見てくると、多くの仕事はやり甲斐を感じて自発的に進める場合を除けば、退屈を回避するためのしかけ(納期、マニュアルなどの作業手順、忙しさなど)が仕組まれているように思えるほどです。

これが仕事を離れて日常生活一般になるとさらに退屈との付き合いは難しくなりがちです。

お客様は神様(?)(その2)

市場原理主義についてマーは論ずる知識も能力も持ち合わせていません。
ただ、「〜主義」が徹底すると、大概のものは信用できない感じがするのは確かです。
規制緩和は大切ですが、しっかりやらねばならない規制も多分あるでしょう。
そこまで、「〜主義」で「全部市場に任せればよい」という人がもしいれば、やはり違和感を禁じ得ません。


多くのことは「ほどほど」がよいのではないでしょうか。
もちろん「〜でなければならない」世界もいくつかあるのだろうし、そこに「なぜ世界一でなければならないのですか。2番じゃダメなんですか」という名文句(?)が生まれる余地があるのでしょうが。


さらに脱線すると、もし「市場は絶対に誤らない」のだとすると「人間は誤らない」に近い発想に行きつくのではと感じるのです。
本当にそうでしょうか。少なくとも私は誤りだらけで今日に至っている気がします。絶対誤らないスーパーマン(ウーマン)なんて想像もつきません。


おそらく、誤らない市場も誤らない人間もあり得ないんじゃないかなぁ。
謝らない人間は多いですけれど。